この帰り道に覚えがあるなら、このページはあなたのために書かれています。
その空っぽは、生まれつきではありません。
多くの場合、そこには合わせてきた歴史があります。
子どもの頃は親の顔色を読み、学校では空気を読み、職場では波風の立たない選択を重ねる。
合わせる技術が磨かれるほど、「自分はどう感じたか」を言葉にする機会は減っていきました。
角を立てないための一つひとつの譲歩は、どれも小さく、どれも正しかった。
ただ、その積み重ねの分だけ、自分の感想が口に出される前に消えていったのです。
明鏡学は、これを「自分がない」とは見ません。
自分を思い出す習慣が、途切れているだけだと見ます。
あなたは消えたのではなく、長く書き足されていない下書きのままなのです。
なお、誰かと比べて「自分は劣っている」と落ち込むのが中心なら、それは似て非なる悩みで、人と比べてしまうときのページのほうが近いかもしれません。
明鏡学は、自分というものを、どこかに埋まっている宝物ではなく、記憶の積み重ねとして見ます。
「記憶こそが、あなたです。」「忘れないように思考を反復することで、あなたの自己の輪郭がはっきりと浮かび上がります。」
感じたことを言葉にせず流すと、それは記憶に刻まれません。
刻まれなければ、反復もされない。
反復されない記憶は薄れ、薄れた分だけ「自分はこういう人間だ」という輪郭もぼやけていく、と明鏡学は説きます。
逆に言えば、輪郭は消えたのではなく、なぞられていないだけです。
今日から一行ずつなぞり直せば、線は少しずつ濃くなりやすいのです。
空っぽを感じた人がよく向かうのが、自分探しの旅と、診断テスト巡りです。
旅先の景色にも、十六種類の性格分類にも、ヒントはあります。
けれど、あなた自身はそこに置かれていません。
どちらも答えを外に探しに行く点で、基準を外に置く比較と同じ構図だからです。
旅から帰った翌週、診断結果を読み終えた翌日、あの空っぽがまた顔を出すのは、そのためだと考えられます。
診断は語彙をくれます。
ただ、その語彙で自分の記憶を書き留め、なぞり返す習慣がなければ、借りた言葉は借りたまま乾いていきます。
探しに行くより、書き留める。
遠くより、今夜の一行です。
明鏡学では、心を三枚の鏡として見立てます(三鏡について)。
「自分がない」感覚は、自分を映す自鏡の曇りです。
他人に合わせ続けて自分を映す機会を失い、映ったわずかな像も、書き留めなかったために薄れていった。
まず記銘で映った像を書きとめ、明観でいま自分に起きていることをそのまま観る。
二つの原則が、この欠けをそれぞれ補います。
大きな決意は要りません。
輪郭は、太い線ではなく、細い線の重なりで濃くなっていくものだからです。
空っぽの感じが強いまま長く続き、眠れない、生活が立ちゆかないといったときは、医療機関や相談窓口に相談することもあわせてご検討ください。
最初の四日は、ただ毎晩一行を書くだけ。
評価も反省も要りません。
五日目の夜に、四日分を読み返します。
そこに並んだ好き嫌いや引っかかりが、そのままあなたの輪郭の下書きです。
六日目と七日目は、読み返して気づいたことを一行ずつ足します。
学徒登録(無料)をすると、この型に沿った「今日の磨き」が毎朝一つ届き、書く習慣が続きやすくなります。
明鏡学は、「見つかる」とも「見つからない」とも断言しません。
そもそも自分を、探し当てる宝物とは見ないからです。
自分とは記憶の積み重ねであり、要るのは発見ではなく、思い出す習慣です。
毎晩の一行を続けるうちに、輪郭は少しずつ濃くなりやすくなります。
白紙の前で固まるのは、書く内容を大きく構えすぎている徴かもしれません。
「昼の麺は少し塩辛かった」で十分です。
感想の大小は問いません。
それでも出ない日は「何も思いつかなかった」と書いてください。
その一行も、その日のあなたの正直な記録です。
「考えることをやめた日、人は他人の人生を生き始める。」― 石川詩音
石が悩みを解くわけではありません。
磨いた鏡は持ち歩けなくても、石なら携えられます。
明鏡石は、あなたの代わりに袖の中で世界を映す、携える鏡。
あなたに合う一石は、生年月日からの無料鑑定で。