この三十分に覚えがあるなら、このページはあなたのために書かれています。
気づけば開いていて、閉じたあとに残るのは、なぜか疲れと焦り。
楽しむために見ていたはずが、いつのまにか比べさせられ、急かされ、心が削られている。
それでも、手放せない。
やめられない自分に、また少し失望する。
明鏡学の見立てでは、疲れの正体は二つあります。
一つは、一日に何百回も他人を映し込まれることで、自分を映すはずの鏡が他人で埋まること。
もう一つは、流れの速さに心の速さまで同調してしまうことです。
他人の鏡と、他人の速度。
この二つが、あなたを静かに消耗させます。
とくに疲れが残りやすいのは、何も投稿せず、ただ眺めて流すだけの時間だと言われています。
受け取るばかりで、自分の側から映すものがない。
鏡にたとえるなら、他人の像を延々と浴びながら、自分の像は一枚も映していない状態です。
消耗して当然の収支ではないでしょうか。
なお、流れ全体ではなく特定の誰かの姿だけが胸に刺さるなら、それは似て非なる悩みで、人と比べてしまうときのページのほうが近いかもしれません。
意志が弱いからではありません。
SNSは、開くたびに違うものが出てくる仕組みでできています。
面白いものが出るときもあれば、何もないときもある。
当たりが不定期に混ざるくじに似たこの形は、「次こそ何かあるかもしれない」と、次も開きたくなるように心に働くと言われています。
つまり、開いてしまうのは設計への自然な反応であって、あなたの欠点ではない、と考えられます。
だからこそ、気合いで断ち切るのではなく、仕組みに対しては仕組みで、つまり距離の設計で応じるのが理にかないます。
「焦りや不安の中に、本当の選択はありません。」
思い切って削除した夜は、静かです。
けれど数日後、手持ち無沙汰の帰り道や眠れない夜に、多くの人が再インストールします。
そして「結局戻ってしまった」という失望が、疲れの上に重なる。
ゼロか百かの断ち方は、反動を招きやすいのです。
仕組みが強いのに、出口を一つしか用意していないからです。
明鏡学が勧めるのは、一段ずつ距離を広げること。
通知、置き場所、時間帯の順に、少しずつ遠ざけます。
一段目だけで楽になったなら、そこがあなたに合う距離かもしれません。
全段を急ぐ必要はありません。
明鏡学では、心を三枚の鏡として見立てます(三鏡について)。
SNS疲れの中心は、流れてくる出来事に反応しきろうとして、心がすり減った状態です。
加えて、流れの速さに合わせて心の水面が波立ち続けている。
そこで、天鏡の原則・明観で「全部には対処しない」と観て受け流し、同じ天鏡の静慮で波を鎮めます。
二枚の原則を重ねて使うのは、疲れの出どころが二つあるからです。
三つで一組の、段階的な距離の設計です。
一段目から順にどうぞ。
一日目に通知、三日目に置き場所、五日目に時間帯。
三段の距離を、一週間かけて一段ずつ広げます。
毎晩、開いた回数ではなく「今日は何段目まで守れたか」だけを記銘帳に一行。
七日目の夜、最初の夜より画面の外の時間が増えていれば、それで十分な進みです。
途中で一段戻る夜があっても、設計を続けている限り、距離づくりは前へ進んでいます。
学徒登録(無料)をすると、この三段に沿った「今日の磨き」が毎朝一つ届きます。
明鏡学は、断つことより距離の設計を勧めます。
遠くの友人との縁や仕事の窓口など、SNSにしかない良さもあるからです。
問題は道具そのものではなく、鏡が他人で埋まる時間の長さです。
通知、置き場所、時間帯の三段で、自分に合う距離を探してみてください。
その焦りこそ、流れの速さに心の速さが同調している徴です。
静慮は「焦りや不安の中に、本当の選択はありません。」と教えます。
一晩見なくても消えない知らせは、たいてい翌朝も残っています。
まず一晩、静けさの側から確かめてみてください。
「他人の鏡には、その人の曇りが混ざっている。― 石川詩音
借りて覗くものではない。」
石が悩みを解くわけではありません。
磨いた鏡は持ち歩けなくても、石なら携えられます。
明鏡石は、あなたの代わりに袖の中で世界を映す、携える鏡。
あなたに合う一石は、生年月日からの無料鑑定で。